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No.
116
Vol.09 豆つぶほどの光

2020.06.01
カンナこと、こんなこと。

令和二年の幕開けは、新型コロナウイルスの猛威で始まったと言えるかもしれない。

絵描きである私の弟はスペインのマドリッドに家族三人で住んでいる。スペインで厳しく外出が禁止され、学校もクラブも全てが休止され、半ば監禁状態に置かれたとき、弟はしみじみと電話でこう言った。

「当たり前だと思っていたことが全部できなくなると、当たり前だと思っていたそれらは、実は凄いことなんだと痛感したよ」と。

なるほどそうだ。私たちも当たり前のようにどこかに行けば手に入ると思っていたものが急に手に入らなくなったり、当たり前に会社に行っていたのにテレワークになったり、子どもの学校、老人のデイサービスが休みになったり、あらゆるものが停止した。何も考えずに「当たり前」にそうしていたことが、全てなくなったのである。そうなって初めて、私たちが今まで、いかに「当たり前」の上に乗っかって暮らしていたかということを、嫌と言うほど、あらためて思い知らされた。

そういえば昔、七夕の頃に特別養護老人ホームを訪れたとき、入所者の願う将来の夢が書かれた短冊が、竹にぶら下がっていたのを思い出す。

「孫と遊びたい」「酒を飲みたい」などに混じって「両手で顔を洗いたい」というのがあった。

私はその時、あまり深く思いを馳せることはなかったが、今はその短冊に書かれた思いがよく分かる。奪われた「当たり前」こそが、その人の夢だったのだ。

「当たり前」の重要性をきちんと知り、感謝する謙虚さこそ、この閉塞感の中で得た大切なことの一つなのかもしれない。そして、もう一つ知ったことがある。

マドリッドに住んでいる9歳の甥とは、外出禁止のせいで何もできなくなったため、私は時々テレビ電話で遊んでいる。一日中相手をしている弟夫婦を解放するためだ。最初は「国旗クイズ」だった。私が学んだのは、エルサルバドルとニカラグアの国旗が似ているということだったが、こんなことでもなければそれに気づきもしなかっただろう。

それに最近、甥は、私の弟が持っている落語のDVDを観ているらしい。だからやけに落語に詳しくなった。甥も、こんなことでもなければ「落語」という文化に接することもなかっただろう。

できなくなったことを数え上げていたらきりがない。でも私が、エルサルバドルとニカラグアの国旗を知ったように、9歳の甥は「落語」の中に日本の文化や伝統を見た。それらはトンネルの中で見つけた先にある、豆粒ほどの小さな光かもしれない。でもそこが出口なのだと私は信じている。

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  • 神津カンナ

作家、フォーラム・エネルギーを考える代表。長年に渡る執筆活動の傍ら、国内外のエネルギー関連施設や現場を取材し、暮らしの中のエネルギーといった視点で講演活動などを行っている。著書に『水燃えて火〜山師と女優の電力革命〜』『冷蔵庫が壊れた日』ほか多数。

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