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No.
118
Vol.11 無用の価値

2020.12.01
カンナこと、こんなこと。

この前、小さな子に付き合って切り紙細工をしているときに思った。いやー、「のりしろ」って大事だなあ……と。のりしろ部分が小さすぎると貼り合わせられなくて穴があいてしまうが、ではのりしろが大きければ良いのかというとそういうものではない。分厚くなるし、のりがボコボコするし、あまり格好良く貼り合わせられないのだ。うーん、加減だなあとしみじみ思ったが、よく考えてみると私たちは、こういう「のりしろ」の部分にずいぶん助けられている。

「のりしろ」がなければ貼り合わせられないのはもちろん、「ハンドルの遊び」がなければ事故は多発するだろうし、「階段の踊り場」がなければ人は息切れしてしまう。

コロナ禍のせいだけでなく、いつの頃からか私たちはそういう「間」のようなものをあまり大切にしなくなった。むしろそれらを「無駄」なものという認識で見るようになり、何となく排除するようになってしまったのかもしれない。けれども全てが「無駄」であったり「非効率」なわけではない。そうやって何もかもいっしょくたにして切り捨てるうちに、いつのまにか私たちは、いろいろなものを失ってしまった。だから、きちっとつながるような貼り合わせはできなくなったし、遊びのないハンドルで社会に出るから事故ばかりになってしまったし、息切れするばかりの暮らしになってしまった。

音符だけではなく、休止符があるから音楽になる。絵の中に余白があるから色が生きる。「余裕」の「裕」という字には「ゆたか」という意味があるし、「寛容」の「寛」には「ゆるやか」という意味がある。

効率を上げようと無駄を排除するときに、ゆたかでゆるやかなものも、私たちは一緒にゴミ箱に捨ててしまったのかもしれない。無駄だと思うものの中には、必要なものも、ゆたかなものも、ゆるやかなものもちゃんとあるのだ。

経済はもはや人間生活には欠かせない側面になったのだから、もちろん大切にしなければいけない。けれども、今やその私たちの暮らしの重要な基盤となった経済を守ろうとすると、やみくもに十把一絡げに切り捨ててしまうので、そのために案外、大切なものも一緒に捨て去ってしまうのかもしれない。はっと気づいたときはもう遅い。覆水盆に返らずのことは多いのだ。そして私たちは苦しくなってようやく気づく。自分たちが苦しいのは、自分たちが自ら捨ててしまったことのせいなのかもしれないと。

老子の言葉に「無用の用」というものがある。一見無駄に思えるものの中にこそ有用なものがあるという教えだ。コップは空間があるからこそ、そこに液体を注げるのだし、家も立派な外観より、私たちは空間で過ごすのだし、ああ考えてみれば携帯する折りたたみ傘も、保険も、みんな無用の用なのかもしれない。大変だ。本当の無用と、大切な無用をちゃんと考えないとえらいことになる!

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  • 神津カンナ

作家、フォーラム・エネルギーを考える代表。長年に渡る執筆活動の傍ら、国内外のエネルギー関連施設や現場を取材し、暮らしの中のエネルギーといった視点で講演活動などを行っている。著書に『水燃えて火〜山師と女優の電力革命〜』『冷蔵庫が壊れた日』ほか多数。

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