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無用の用

2022.03.01
カンナこと、こんなこと。

日本に於ける衛星放送は、NHKが1984年に放送開始したのが最初だと思うが、計算してみるともう40年近く前のことになる。放送が始まった頃、もの珍しくてよく衛星放送のチャンネルを見たものだが、印象に残っているのは、オーケストラのリハーサル風景であるとか、ちょうど1984年はまだ夏季と冬季のオリンピックが同じ年に行なわれていたのだが、夏季がロサンゼルス、冬季がサラエヴォで、地上波ではほとんど放送しない、いわゆる「マイナー競技」(失礼)を流していたことだ。おそらくきちんと映像が視聴者に届くか試していたのかもしれない。記憶では、解説も何もなかったような気がする。でもこれらはとっても面白かった。

そういえば私は昔、大枚をはたいて手に入れた本がある。それは有名な作家が、原稿用紙に手書きで書いたものに、訂正の赤を入れたものを集めた本である。直し方も作家によってたいそう違う。前に書いた……つまり訂正前の文章を絶対に読めないように消す人もいれば、訂正前の文章が分かるように消す人もいる。どこをどのように直したのか、それを見るのは勉強になる。なるほど、ここに句読点を入れたのか、こう文章を直したのか、漢字をあえてこれにしたのか……などなど。今でも私は時折、重い本を引っ張り出して読んでいる。

今は何でも、受け手が考える必要がないくらい、かゆいところに手が届くように教えてくれる。あの頃は、解説も何もない映像だけが流れる中で、なぜ指揮者はそこで止めたのか、リュージュの選手はこんなふうにイメージトレーニングをするのか。あるいは本のページを繰りながら、虫眼鏡片手に消された文言を必死に読みとり、自分なりに、いにしえの大作家が訂正した意味を考えるような時間を持つことができた。

老子の言葉に「無用の用」というものがある。これは、器の中に空洞があるからこそ器になり得る、部屋には空間があるからこそ部屋として存在する。だから、一見、無用のように思えるものにも存在意義があるのだという意味である。

少しずれるかもしれないが、解説もなく、ポンと、映像や書物などただそれだけを与えられることは、「無用の用」を知るよいチャンスだと思う。その中から何かを読み取ると、ああ名演奏には、オリンピック競技には、小説には、こういう裏打ちがあったのか。とわかる。「無用の用」があるがゆえに成り立っているのだと知るのである。私も恩恵にはどっぷり浸かっているのだけれど、現代のさまざまな情報源は、きちんと教えるがために、もしかしたら私たちが「無用の用」に気づく瞬間を奪っているのかもしれない。

ぼんやりとコップを見る。

当たり前だと思っていたけれど、何も入らない空洞があるからこそコップなのだ。部屋には空間があるからこそ、四肢を伸ばすことができる。

悪者のように言われている「炭素」にも「原子力」にも、「無用の用」があるはず。それを探す1年にしなくちゃと、ちょっと真面目に思う私である。

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  • 神津カンナ

作家、フォーラム・エネルギーを考える代表。長年に渡る執筆活動の傍ら、国内外のエネルギー関連施設や現場を取材し、暮らしの中のエネルギーといった視点で講演活動などを行っている。著書に『水燃えて火〜山師と女優の電力革命〜』『冷蔵庫が壊れた日』ほか多数。

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