中部地域の注目パーソンにインタビュー!
苦境の撚糸業界で
起死回生を果たす
浅野撚糸株式会社
代表取締役社長 浅野雅己さん
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January 25. 2023(Wed.)
岐阜県安八町(あんぱちちょう)にある浅野撚糸株式会社の二代目社長・浅野雅己(あさのまさみ)さんは、空前の大ヒットを続けるタオル『エアーかおる』の生みの親として知られる。斜陽産業と呼ばれて久しい撚糸業界にありながら、経営危機を脱却して見事に復活を遂げるなど、その経営手腕にも注目が集まる。第二回目の今回は、家業を継ぎ、苦境を乗り越えようともがいた時期について伺った。
ー前回の記事はこちら
「魔法のタオル」の生みの親の素顔とは 浅野撚糸株式会社 代表取締役社長 浅野雅己さん(1/4)
体育教師の道を諦め、
家業を継ぐと決断
福島大学卒業後、小学校の教員として働き始めた浅野さん。
最初の3年間は小学校高学年の担任を務めたが、4年目にして念願だった中学校の体育教師として勤務することができた。しかし、その翌年には浅野撚糸に戻ることを決断。
心から愛情を注いで育ててくれた母は、大学に進学して息子が離れた寂しさが引き金になったのか、病に苛まれるようになった。また、その頃は、父・博さんが地元の撚糸業界の理事長を務め、将来のために先陣を切って高額な最新機械を購入したタイミングだった。
「教員の仕事が嫌だったわけではありません。当時の中学校の先生は泣きながら引き留めてくれました。それでも家族と会社を守りたいと思い、2つ目の夢だった社長の道を選ぶことを決めました」
中国製品が席巻し、売上は減少の一途を辿ることに
1995年、35歳の若さで二代目社長となった浅野さん。就任まもなく当時の最先端だった複合撚糸技術による製品開発に取り組み、ゴムと撚糸をねじり合わせたストレッチ糸が大ヒット。1999年には過去最高の売上を記録した。ところが、翌年から状況は一変。安価な中国製品が国内市場を席巻し、浅野撚糸の売上は減少の一途を辿っていった。2003年にはリストラを断行し、社員を1/3に減らした。苦渋の決断だった。わずか数年の間に、文字通りの栄枯盛衰を体験することになった。
その時点ですでに借金を完済していた浅野撚糸としては、廃業する道もあった。ただ、協力会社の多くは、浅野さんの声掛けによって最新設備を導入し、巨額の借金を抱えたままだった。「ここで自分たちだけ逃げるわけにはいかない」と、浅野さんは会社の継続を決めた。
自分のためではなく、
人のために
業績を回復させるために、がむしゃらに働いていた浅野さんは、この頃から「人のために」という思いを強く抱くようになったと言う。
「人のためなら意外に頑張れるものです。潰れることも怖くない。そういう心境でしたね」
当時もし廃業していたら、協力会社はきっと倒産していた。
「『浅野撚糸に来たら、夜遅くまで社長室の明かりが付いている。仲間がいるならもう1日頑張ろう』と踏みとどまったという話をのちに聞きました」
父・博さんからも「大義を持て」と言われたという。とにかく協力会社の借金を返すまでは踏ん張らないといけない。そんな強い決意から、起死回生の一手として『スーパーゼロ』の開発に取り組むこととなる。
プロフィール
- 浅野撚糸株式会社 代表取締役社長
- 浅野 雅己
- 1960年生まれ。浅野撚糸株式会社の二代目社長。撚糸の開発を続け、柔らかく軽量、吸水性抜群の魔法の撚糸『スーパーゼロ』の開発に成功。この画期的な糸の特性を生かし、三重県津市の老舗タオルメーカー・おぼろタオルと共同で『エアーかおる』を生み出し、シリーズ累計販売枚数1400万枚を超える人気商品に育て上げた。
- 浅野撚糸株式会社
- 1967年、縄の加工業を営んでいた父・博さんが撚糸工場として創業。最先端の機械と高度な技術で大きく成長を遂げるも、安価な海外製品が国内シェアを占拠し、一時は倒産寸前の危機に。その後、タオル『エアーかおる』の大ヒットによりV字回復を成し遂げた。