
中部地域の注目パーソンにインタビュー!
瀬戸焼を
世界に広める役目を
瀬戸本業窯
八代後継 水野雄介
February 27. 2025(Thu.)
愛知県瀬戸市で生産されている『馬の目皿』をご存じだろうか。皿の内側の縁に渦巻き模様がダイナミックに描かれたもので、瀬戸焼を代表する器であり、瀬戸の民芸として広く知られた工芸品である。
その窯元の家に生まれたのが、水野雄介さん。中部地域で民芸の活動をする中心人物のひとりだ。
今回は、水野さんが窯元に生まれ育った背景から、民芸に強く惹かれるようになり、瀬戸民藝館を立ち上げるに至った話について伺った。
※本記事における「民藝」と「民芸」の使い方について:柳宗悦の思想に基づいた意味合いの場合は「民藝」を、柳の思想から発展しつつ現代において展開されているものの場合は「民芸」を使用しています。
※冊子「交流Style Magazine」130号でも、水野雄介さんのインタビュー記事を掲載しています。無料でお読みいただけるPDFはこちらから閲覧・ダウンロードできます。
https://www.chuden.co.jp/resource/corporate/report/koryu/catalog_06_koryu_2025winter.pdf


芸大進学のはずが、華道に進む
「馬の目」と呼ばれる皿は、瀬戸特有の鉄分が抜けた白い土を練って成形される。この白い土は焼成されると、ほんのり生成りの色になり、どっしりとした厚みのある皿となる。また、厚手の大型の皿で、石のように固く丈夫という意味の“石皿”や、麦わらを連想させる絵付けの“麦わら手”という加飾、銅板転写によるデザインタイルの“本業敷瓦(ほんぎょうしきがわら)”など、ひとえに瀬戸焼と言っても瀬戸独特の焼き物はさまざまだ。
水野雄介さんは、これらの焼き物に代表される瀬戸の窯元の息子として生を受けた。瀬戸市の中でも製陶の古い歴史を持つ洞(ほら)地区の窯元・瀬戸本業窯である。製土も釉薬(ゆうやく)も昔ながらの方法と材料を受け継いでおり、使えば使うほどに表情が出てきて、器好きがいうところの“育つ”過程を楽しめる陶器を生み出している。
「親からは家業を継いでほしいとは一度も言われたことがありませんでした。子どもの頃からものをつくることは大好きでしたから、自然と自分もものづくりを仕事をするのだろうと、ぼんやりと思っていました」
父親が継いだのが七代、水野さんはその後継として八代となる。長い歴史を紡いできた証である継承数字を見れば、当然、親は次代へバトンを繋ぎたいと思っていたはずだ。
そんな中、芸術系の大学に進学するつもりで、京都のオープンスクールに出かけた時のこと。偶然、華道・池坊の家元の前を通りかかった。大きな陶器の壺に花が活けてあるその風景を見て、水野さんは思わず立ち止まってしまったという。焼き物である陶器が使われているシーンを客観的に見て、その世界観に一瞬で入り込んでしまったのだ。そこから進学の予定は一転、華道・池坊の家元に直門として入門を決めた。




ほんのり灰色になる。
バッグに陶器を詰めて
全国行脚する日々
花の修行に勤しんだ4年間は、水野さんの人生の中で焼き物から離れた唯一の時間だった。花が持つ美しさを生かすこと、自然と対峙するということ、花と相性の良い器のことなど、さまざまなことを学んだ4年間。焼き物のつくり手ではなく、使い手としての目線を持つことができた。焼き物から離れていたとはいえ、感性の育成という意味で、間違いなく今の水野さんがあるのは、この4年間があったからだ。
地元に戻ってからは、瀬戸にある陶器の訓練校に通った。24歳で家業に入ると、周りからの「跡継ぎが帰ってきた」という期待値がプレッシャーになった。“親とは違うことをしなければいけない”という呪縛に苦しんだという。ひたすら工房にこもって制作を続けた。
「父や祖父は東京や大阪の画廊が主なビジネスの相手だったんです。でも私は、このままの路線を辿ってよいのかな?と考えました。なんとなく自分の中で画廊は結びつかなかった」
父や祖父の時代とは異なり、高価な価格帯ではなくてもセンスの良いものがきちんと評価される時代になっていた。自分たちの器も、モノの良さを理解して購入してもらいたいと考えた水野さんは、バックパックに器をいっぱいに詰め込んで、セレクトショップや雑貨屋などを飛び込みで訪問しては作品を取り扱ってもらえないかと営業にまわった。
そして、ある日、京都の本屋が水野さんの器に目をつけて、店頭に置いてくれることになる。それがひとつのきっかけとなってメディアや各地のショップから声がかかるようになった。
「祖父と父がつくってくれた土壌に加えて、新しい土地を自分で耕すことができたと思います」


本業窯の商品のほか、瀬戸を中心に
全国の民芸品が揃っている。
民芸を考えることは
生き方を見つめ直すことにつながる
水野さんが30代になると、瀬戸本業窯のファンが増え、さまざまなメディアで取り上げられるなど、注目度が高まっていく。
ある時、「民藝運動」の中心人物であったた陶芸家・濱田庄司の孫である琢司さんと登壇してディスカッションする機会があった。水野さんは、祖父である六代半次郎が、深く感銘を受けて民藝運動に関わっていたことを知ってはいたものの、自身では瀬戸と民藝の関係性について熟考したことはなかったという。しかし、このディスカッションが、民藝について考えるきっかけとなった。そして、何百年も続く瀬戸の焼き物の歴史について、自分はまだほんの一片しか知らなかったということに気がついた。それからは文献を読みあさり、瀬戸の焼き物の文脈を自分の中で構築していく作業が続いた。
水野さんは瀬戸本業窯や民芸のことを語る時には必ず自身でまとめた映像を見せることにしている。まずは瀬戸の陶芸の歴史を知ってほしいと考えているからだ。
その熱のこもった話ぶりに引き込まれ、聞き手も瀬戸の焼き物の歴史を旅することができる。特に瀬戸の土壌の良さについては、学術的な内容の説明もあり、中部地方の全域に渡る土壌も含め、“土博士”と呼びたくなるような話である。


江戸時代後期から使われていた大規模な窯。


瀬戸民藝館から
瀬戸や民芸の魅力を発信
瀬戸の価値を知れば知るほど「多くの人に伝えなければ」という水野さんの思いは募っていった。
そこで、2021年クラウドファンディングを利用して「瀬戸民藝館プロジェクト」を立ち上げることを決意。
もともと資料館として六代半次郎のコレクションを公開していた建物があったが、傷みがひどく、クラウドファンディングや助成金による支援を受けて改修工事をおこなうことに。より多くの人が足を運びやすく瀬戸の魅力を発信できる施設にリニューアルさせようと挑戦したのだ。
そして、その試みは多くの人の共感を得て、瀬戸民藝館は2022年にオープン。祖父母が収集した民芸品を展示し、さらに瀬戸の焼き物を知り、体験できる施設として、観光客が足を運ぶ文化の拠点となった。
この一大プロジェクトを成功させ、瀬戸の民芸を広く伝えようとしている水野さんに「民芸とは?」と聞いてみた。
「民芸は、生き方を見つめ直すことができるものではないでしょうか」と印象的な言葉が返ってきた。
「歴史を紡いできた温かみのある器を長年に渡って普段の生活の中で愛でていく。それが生き方の選択肢のひとつであることに気づいたら、民芸は暮らしの軸になるような気がします」
価値は目に見えないが感じるものである。暮らしの中で“普段を愛でる”という価値を感じることができる人の心に、民芸がすっと入り込んでいくのだろう。


リビングダイニングの風景(瀬戸民藝館2階)。


プロフィール
- 瀬戸本業窯 八代後継 陶工
- 水野雄介(みずの ゆうすけ)
- 瀬戸の焼き物について、歴史や地質学などさまざまな側面からの調査研究を重ねながら、自らも作陶に打ち込む日々。2022年には敷地内に「瀬戸・ものづくりと暮らしのミュージアム[瀬戸民藝館]」を、クラウドファンディングを使ったプロジェクトで開館させた。瀬戸市内の仲間たちとの観光にまつわるプランニングを始め、瀬戸の名前を発信する活動を続けている。


- 瀬戸本業窯/瀬戸民藝館
- 江戸時代から約250年に渡って器づくりを続けてきた愛知県瀬戸市の窯元。六代水野半次郎は、柳宗悦の「民藝」の考え方に共鳴し、現在は七代・八代後継を中心に10名ほどの職人たちとともに作陶をしている。
「瀬戸・ものづくりと暮らしのミュージアム[瀬戸民藝館]」が併設されており、館内では瀬戸の焼き物の歴史を学べるほか、馬の目皿・石皿などの展示、季節ごとの民芸を使ったショールームを観覧できる。